友がみな我より偉く見ゆる日

読書とか登山の記録とか

東大生は勉強ができる

最近、「東大を舐めるな」という主張や、それに呼応した「みんな東大を舐めたがっている」みたいな記事がバズってました。それに少し関連して、書きたいことを書きます。

 

言いたいことは、タイトルの通りでほぼ全てです。

東大生は勉強ができます。

しかし、それ以上ではありません。

 

「東大生である」という一点のみから導かれるのは、「勉強ができる(少なくとも高校生のときはできた)人である」「勉強を頑張った」という事実に過ぎません。

「東大生」という集団の共通項は、「東大受験を突破した」という点にしかなく、東大受験はあくまで「勉強ができるかどうか」を測るものだからです。

「優秀である」「頭が良い」といった評価は、「勉強ができる」という要素からある程度高い蓋然性で予想されるものではありますが、必ずしも「東大生であるならば頭が良い」は成り立たないと考えます。

 

一方で、「東大生は勉強ができる」という事実は、「東大生は勉強しかできない」ということを意味しません。当たり前ですが、「勉強しかできない東大生」も「勉強以外のことでも優秀な東大生」もいます。

 

したがって、「東大生なのだから優秀に決まっている」と盲信するのも、「東大生なのだからどうせ勉強しかできない」と無根拠に貶めるのも、間違っています。

 

「勉強ができる」ということは、「運動が得意」「性格が良い」「仕事ができる」「見た目がかっこいい/かわいい」などと同じく、その人を構成する長所の1つです。

顔がかっこいいからと言って、必ずしも仕事ができるとは限りません。優しくて気の利く人であっても、運動も得意なはずだとは思わないでしょう。それと同じです。

勉強ができるからといって、他のことでも優秀だと考えるのは論理の飛躍です。しかし、「勉強ができる」という長所そのものは褒められてしかるべきです。あくまで1つの長所として、まわりの人は素直にすごいなと思えばいいし、本人はそこに誇りを持てばいい。

すなわち、「東大生である」という事実はその人の1つの長所を表すものとして見られるべきなのです。その点については尊重されるべきである一方、それ以外の部分についてはまた別に判断するのが適切です。

そこを混同しないでもらいたい。

 

長々と書くほどのことじゃないので、この辺で終わります。バズった記事風に言うならば、「東大生であるというだけで舐めるな」ということでしょうか。「東大生である」という事実以外も見て、「こいつは大したことないな」と思えば、舐めればいいでしょう。

 

1人1人の人間は様々な要素で構成されているのだから、その各要素のみで人を見極めようとするのは誤りです。すべての要素をまぜこぜにして考えたがる人が多いように感じます。

 

おわり。